ディズニーランドでは先頭が全く進んでないのに後ろの方で並んでる人を
ロープを動かして移動させることがある
これは同じ場所にじっとしてるとストレスになるため動かしている
(知らないと「進んだ」と思ってしまうがこの場合は全く進んでいない)
では、現代人が「逃げ出したい」と思った伝統的な共同体と、時間やお金を投資してまでも「手に入れたい」「入りたい」と思っている共同体は何が違うのでしょう?
消滅しつつある伝統的な共同体の多くは、個人に参加・不参加の決定権がありません。そこでは、家族は家族であるという理由で一緒にご飯を食べるこ とを求められ、同じ会社の社員であるという理由で日曜日に運動会に呼び出され、ご近所であるという理由で日曜日の草むしりに参加しろと言われます。
一方、現代社会で求められているのは、「運動をしたい人だけが運動会に参加する」「草むしりのボランティアをしたい人だけがボランティアグループに入る」という、個人の参加意思を前提としたコミュニティです。
行為としてはたとえ同じこと(例えば草むしり)をするのでも、「自分の時間をコミュニティのために犠牲にしているのではなく、自分の好きなことだからやっている」という前提が求められる。これが「敬遠されつつある共同体」と「求められている共同体」の違いです。
ところが、共同体を成功裏に運営し続けるには、一定量の「個人の犠牲」が必要という点では、昔の共同体も今のコミュニティも同じです。
どこでも、コミュニティの長(リーダー)は無報酬で相当の時間の投資を要請されますし、時にはくだらないもめごとに巻き込まれます。「共同体のた めに自分の時間を使い、嫌われる可能性も引き受ける」人がいないと、共同体は長期間にわたっては成り立ちえません。「楽しそうだから入りたい」「楽しくな いから辞める」という人しかいないコミュニティは長続きせず、すぐに解体(自然消滅)してしまうのです。
だからといってそこに「個々のメンバーが果たすべき責任」とか強い「共同体のルール」を求めてしまうと、それを「うざい」と感じる人が増え、最初は盛り上がって成立したコミュニティも、昔のコミュニティ同様に崩壊してしまいます。
このため長く続くコミュニティの多くは、下記の2種類のいずれかの場合が多いように思われます。
1.フリーライダー(ただ乗りする人)が混ざり込まない、ごく少数の間だけは成立するケース(コミュニティの規模が大きくなると崩壊してしまう)
2.コミュニティの維持運営に相当の役割を担う「コミュニティリーダー」が仕事の大半を担ってくれる「個人主催コミュニティ」のケース。多くの場合、そうすることに商業的なメリットがある人がその役割を引き受ける
本来は、すべての人が「テイクより少し多めにギブする」というのが共同体が成り立つ条件ですが、実際には多くの人が「ギブよりテイクの方が少しでも多いなら参加したい」と考えるため、多くのコミュニティの寿命はとても短いものになってしまうのです。
犯罪件数が減らなくても、街の中からホームレスや、精神疾患者や、アル中や、たむろした若者が減ったら、中流階層の人たちは「安全になった」と感じる。それが目当て。
| — | Twitter / @emigrl (via shibata616) |





